献眼の勧め≪井原 弘志様≫
母の死(献眼当日のこと)
この地方で言う松の内も過ぎた1月12日零時50分、私の母は行年百歳の天寿を全うした。
住み慣れた我が家で、枯れ木が朽ちて行くような静かな旅立ちであった。
その日は、期しくも成人の日で三連休、主治医の先生は家族のもとに帰られていて、すぐにとは言える状況にない。
今、私にできることは取りあえずタオルを湿らせ母の目を覆うことだ。
それは、眼球の乾燥を防ぐためと聴いていた処置である。
小雪の舞う夜中の1時半、息せき切って駆けつけて頂いた看護師のY子さん、
必要な処置を済ませ家路に着かれたのは朝の4時半ごろであった。
献眼登録は家族まとめて済ませているため、心の準備は出来ていた。
しかし、眼球摘出は心停止後12時間以内と言うタイムリミットが気掛かりである。
それでも、主治医の診断がなければ前に進まない。
24時間対応のドナーホットラインは承知していたが、夜中の電話は少し気が引ける。
朝6時を待ちかねて、兵庫アイバンクの渡邉コーディネーターに電話を入れる。
ドナーの状況などかなり詳しく確認された。準備を整えてそちらに向かうとのこと。
しかし、外は雪が降っている、春日インターまでは行けてもそれから先の保証はない。
雪に慣れた車のドッキングが可能なら有難いとのこと。とっさにクラブの献眼推進委員長であるL田村雅宏に電話した。
「承知した」その返事に不安が吹き飛んだ。
主治医も9時30分には到着されて診断も終わった。
10時半を過ぎたころ、渡邉コーディネーターと執刀される女医さんが到着。
コーディネーターの慎重な手順説明と、遺族への気遣いをされながら静かに摘出手術は進められた。
L田村雅宏と私たち夫婦は、少し離れてその様子を見守っていた。
すべての処置が終わり、「違和感がないかご確認ください」と促された母の顔は、ためらうこともない穏やかな寝顔であった。
想いをつなぐ光の架け橋
満中陰の法要も済み、花の便りが届く季節を迎えた。
故人への情は立つ月日と共に薄らいで行くけれども、厚労省やアイバンクそして、
ライオンズクラブより戴いた感謝状は、故人と家族の想いをつなぐ架け橋となっている。
角膜移植によって光を取り戻された方の喜びと献眼者家族の立場は違っても、
百歳を数える母の目が将来ある人の光となって生かされていることを思うと、心温まるものがある。
大屋ライオンズクラブが、献眼推進に正面から取り組んで4年の歳月を迎えることになる。
4,000人に満たない小さな町から7人の方の献眼が実現した。
立派なお題目も必要ではあるけれど、理論倒れにならないよう誠意をもって行動に移すことが、何よりも肝心ではないだろうか。