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公益財団法人 兵庫アイバンク

皆様からのお便り

皆様からのお便り

献眼者のご家族の声をお伝えします

兵庫県尼崎市 G様

第二の人生、エンジョイしていますように!

10年近く前、叔父が亡くなりました。
叔父は、前日まで普通に仕事をしてご飯を食べ、いつも通り過ごしておりましたが、突然風呂場で倒れて帰らぬ人となりました。

人に与えることが好きな人で、私も沢山のことを教えてもらいました。
経営者だったこともあり大変羽振りが良く、初めて回らない寿司に連れて行ってくれたのも、携帯電話を持たせてくれたのも、高級なバーに連れて行ってくれたのも、叔父でした。ゴルフやボウリングもうまく、私にとっては本当に人生の生き字引のような人でした。

私はなくなった翌日叔父の家に向かいました。
叔父は、静かにとてもきれいな顔で眠っていました。

そのまま泊まり込み、通夜、葬儀を終えたあと、祖母がひとこと。

「おじちゃんね、臓器提供したんよ。角膜も。眼球入れ替えてもらったんやで。義眼が入ってるらしい。」

突然言われて私はとてもびっくりしました。
だって、叔父はとってもきれいなお顔をしていたから。
全部あげちゃったようには全然見えない!

後日感謝状が届き、ああ、祖母の言っていたことは本当なんだ、とやっと実感できたと共に、
与えたがりの叔父の行為を、「おじちゃんらしいなあ!」と思い、とても嬉しい気分になりました。

若くして亡くなった叔父の、ぴちぴち?な角膜を移植された方。
どなたか分かりませんが、今もお元気ならいいな、と心から思います。
決して長くはありませんでしたが、なかなか濃ゆ~い人生をエンジョイした叔父の角膜が、
新天地でもエンジョイしていますように!

そして。
この素敵な「アイバンク」というシステムが、もっと市民権を得て沢山の方々に幸せがとどきますように!!!

神戸市兵庫区 尼嵜 領一様

「生命のバトンタッチ」をすれば、もっと優しい社会になるはず。

平成25年1月4日に父は市民病院にて78歳で天国へ行きました。父は、とても優しく、面倒見の良い人でした。母を愛し、僕といもうと兄弟3人を愛情持っていつも笑顔で冗談話をする人でした。

父が生前よく言っていたことがあります!「俺が死んだら、目でも耳でも腎臓でも肝臓どこでもええから使えるところは使ってもええで!俺は死んでいるねんから何も思わないし、痛くもない!困っている人がいたら、おれのんでよかったら使ってほしい!」この言葉を思い出し、市民病院の先生に相談したところ、「眼の角膜の提供が出来る。」と言っていましたので、僕は、迷わず父の目を兵庫アイバンクに提供することを決意致しました。そして、コーディネーターの渡邉さんに来て頂き、眼球提供をしました。渡邉さんは仏様になった父に、大きな声で「黙祷!」と言い、合唱してくれました。僕はあの時の風景を今でも忘れません!大変感謝しています。

無事に父の眼球は摘出され、義眼を入れて頂きました。
本当に父の顔は仏様のように美しい顔と姿でもありました。

人は必ず死がきます。その時自分の体の一部でも今困っている人がいれば、「生命のバトンタッチ」をすれば、もっと優しい社会、もっと人間らしく終われると私は思っています!このことをもっと多くの人に知って頂きたいのと協力をしてほしいと心から思っています。

僕も、車やバイクをよく乗るので、是非生命の終わりが来たのなら、使える臓器、目など使える所は、次の方へと「生命のバトンタッチ」をしたいと思います!またそこで人の役に立てることを人としての誇りと考えています!

天国のお父さんへ
「あなたの目は次の方の役に立っているよ!
立派だよ!本当の優しさを見せてもらったヨ!ありがとう!」
僕も、自分の命に何かあれば一緒のことするからね!
合掌!

Y.H様

真っ暗な世界から明るい世界になればどんなに嬉しいことでしょう。

この度は、アイバンクの方が自宅まで感謝状をお運び下さいまして、又、仏様にもおまいり下さり有り難うございました。

このように地道な努力をしていただき厚く御礼申します。
本人の強い意志だったので角膜を提供できて、ほんとうに良かったと思っています。

さて、私がアイバンクのことを知ったのは、主人がライオンズクラブに入会してからでした。
自分一人の力では何ひとつ役に立つことが出来ないので微力ながらも皆さんと一緒なら出来るという気持ちから入会させていただきました。
アイバンクの活動の事を知るとすぐ家族三人献眼の登録をしました。

目のみえない人にとっては、四季折々の美しい景色が見えないのは、もちろん、普段の生活も不便な事ばかりでしょう。
真っ暗な世界から明るい世界になればどんなに嬉しいことでしょう。

私の母も十余年前角膜を提供して二人の方の目が見えるようになりました。
母の場合も誰も反対する者もなく、献眼が無事出来、安心致しました。

井原 弘志様

献眼の勧め

母の死(献眼当日のこと)

この地方で言う松の内も過ぎた1月12日零時50分、私の母は行年百歳の天寿を全うした。
住み慣れた我が家で、枯れ木が朽ちて行くような静かな旅立ちであった。

その日は、期しくも成人の日で三連休、主治医の先生は家族のもとに帰られていて、すぐにとは言える状況にない。
今、私にできることは取りあえずタオルを湿らせ母の目を覆うことだ。
それは、眼球の乾燥を防ぐためと聴いていた処置である。 

小雪の舞う夜中の1時半、息せき切って駆けつけて頂いた看護師のY子さん、
必要な処置を済ませ家路に着かれたのは朝の4時半ごろであった。

献眼登録は家族まとめて済ませているため、心の準備は出来ていた。
しかし、眼球摘出は心停止後12時間以内と言うタイムリミットが気掛かりである。
それでも、主治医の診断がなければ前に進まない。

24時間対応のドナーホットラインは承知していたが、夜中の電話は少し気が引ける。
朝6時を待ちかねて、兵庫アイバンクの渡邉コーディネーターに電話を入れる。
ドナーの状況などかなり詳しく確認された。準備を整えてそちらに向かうとのこと。
しかし、外は雪が降っている、春日インターまでは行けてもそれから先の保証はない。
雪に慣れた車のドッキングが可能なら有難いとのこと。とっさにクラブの献眼推進委員長であるL田村雅宏に電話した。
「承知した」その返事に不安が吹き飛んだ。

主治医も9時30分には到着されて診断も終わった。
10時半を過ぎたころ、渡邉コーディネーターと執刀される女医さんが到着。
コーディネーターの慎重な手順説明と、遺族への気遣いをされながら静かに摘出手術は進められた。
L田村雅宏と私たち夫婦は、少し離れてその様子を見守っていた。

すべての処置が終わり、「違和感がないかご確認ください」と促された母の顔は、ためらうこともない穏やかな寝顔であった。

想いをつなぐ光の架け橋

満中陰の法要も済み、花の便りが届く季節を迎えた。
故人への情は立つ月日と共に薄らいで行くけれども、厚労省やアイバンクそして、
ライオンズクラブより戴いた感謝状は、故人と家族の想いをつなぐ架け橋となっている。
角膜移植によって光を取り戻された方の喜びと献眼者家族の立場は違っても、
百歳を数える母の目が将来ある人の光となって生かされていることを思うと、心温まるものがある。

大屋ライオンズクラブが、献眼推進に正面から取り組んで4年の歳月を迎えることになる。
4,000人に満たない小さな町から7人の方の献眼が実現した。
立派なお題目も必要ではあるけれど、理論倒れにならないよう誠意をもって行動に移すことが、何よりも肝心ではないだろうか。

兵庫県養父市 小畑 美由紀様

父の献眼を経験して

 

父が献眼に至ったきっかけは、私が参列した近所のおばあさんのお葬式でした。
おばあさんは、誰かの役に立ちたいと生前から言っておられ、大屋ライオンズクラブの勧めでアイバンクに登録され、角膜を提供されたことを知り、おばあさんの崇高な考えと家族の受け入れに対し大きな感動と衝撃を受けたことを今でも覚えています。

おばあさんの葬儀終了と同時に、さっそく近所の大屋ライオンズクラブの方にお話を伺い、私もぜひ協力したいと申し出ました。
その時に大屋ライオンズクラブは目の不自由な方に光を与えてあげるために、アイバンク登録者を募る活動を積極的に行っていることを知りました。

私は保健師をしており、私の死後に体が役に立つのであればと思い、
臓器提供意思表示カードも早くから整えていましたが、家族への勧めまではしていませんでした。

このたび大屋ライオンズクラブの方の積極的な勧めにより、
私自身のみならず家族間で角膜提供について話をする機会を持つ事ができ、父も賛同してくれました。

そうこうしているうちに父の具合が悪くなり、医師からは入院も勧められましたが、父は家で死ぬと言いきりました。
家族として父の最後の望みをかなえてあげようと主治医と共に在宅での看取りを決めました。

死期が近づくにつれ、角膜提供のことが頭に浮かび、担当看護師にも相談しましたが、
「面倒なことが多いから断ったら。」と言われ、私自身も(眼球摘出は医療行為だから在宅で亡くなってもきっと病院に遺体を搬送して、病院で眼球を摘出するんだうなぁ、死んでからそんなことまでするのは面倒やし、
こんなことは病院で亡くなる人しかできないことなんや。)と思い、やっぱりそんな面倒で大変なことはやめようかという気持ちが頭をよぎりました。

そこで、半ば断るつもりでライオンズクラブの方へ連絡を入れたところ、
「眼球摘出は家でできる。夜中でもいつでもアイバンクの人が待機していて医師と連絡して家まで来てくれるから亡くなったらすぐ連絡したらいいし、せっかくお父さんが意思を示しているのだから、ぜひその思いを受けて提供してほしい。また神戸から来られるので時間がかかるけど、角膜が乾燥しないように濡れたガーゼなどで瞼を覆ってもらっていたらいい。」とのアドバイスをいただき、てっきり近くの病院ですると思っていたので、家でできると聞き、目からうろこ状態でした。
それなら父の意思を受け止め、目の不自由な方のために父の角膜を提供しようと、家族も気持ちが固まりました。

その日の夜中に父は亡くなり、本当に夜中で申し訳ない気持ちもありましたが、
ライオンズの方の心強いアドバイスのおかげで、迷わずアイバンクの方へ連絡を入れさせていただきました。

実際には家に到着されるまでに思ったより時間はかかりましたが、
家での眼球摘出に、私も母も立ち会い見学までさせていただくなど、
病院で亡くなった方にはできない経験もさせていただきました。
摘出後も義眼を入れ、瞼の縫合により外見では摘出したことはわからない状態にしていただけました。

摘出にあたっては、遺族への意思確認、感染症がないかを見るための血液検査、眼球摘出と最後のしあげなど、
一連の作業には約1時間半程度かかったように思いますが、
悲しみよりも誰かの役に立てたことや父の思いを果たすことができたという満足感がわいてきました。

今回の父の献眼を経験して感じたことは、具体的な献眼の仕組みはまったく知らないということ、
誰かの後押しがないと登録や実際の献眼に至るには難しいこと、
医療関係者の看護師でもやめる方向にアドバイスをしてしまい、本人や家族の意思をぐらつかせることもあるということです。
でも逆に、父の葬儀終了後、お寺さんが「お父さんはええことしなったなぁ。わしもさっそく登録するわ。」と言ってくださり、私が感銘を受けたように葬儀に参列された方にも登録の輪が広がっていくきっかけにもなるということです。

私の場合には大屋ライオンズクラブの方の積極的な後押しがあったことで実際の献眼に至ったわけですが、
アイバンク自体も職員は少なく、啓発や身近な個々人へのかかわりには限界があると聞いています。
今後はこのような実際の経験を広く多くの方に知っていただき、
一人でも多くの方がアイバンク登録されるとともに最終的に実際の献眼に至るよう、
微力ながら協力をさせていただきたいと思います。

仏壇の前の多くの感謝状を見るにつけ、父の残してくれた崇高な遺志に改めて思いを馳せるとともに、
どこかで父が誰かの目となり元気に生きていると思いながら、本人及び家族が満足できる最期が迎えられたと感謝をし、
心穏やかに過ごしているこの頃です。

小野 眞貴様

自分一人だけの身体ではないと諭されました。

1965年、現在の日本アイバンク協会が設立したことを新聞で知った私の父である大橋 彦左衛門は、早速新聞社に手紙を書きました。

アイバンク協会に連絡をとった後、家族全員の入会手続きを済ませ、
会員証が手元に届いた時は食卓に母と私と弟を座らせて目の前でその意味を丁寧に説明してくれました。
分厚い眼鏡をかけていた母は、眼鏡を外すと何も見えない状態だったのですが「こんな私の目でも役に立つの。」と父に聞きました。
「視力は関係ない、角膜だから。」そういう説明に小学生だった私は「将来、私も何かの役に立つことがあるんだ。誰かの役に立てるんだな。」そういう自覚が芽生えたことを今でも覚えております。

その静かなる思いをずっと抱えたまま父は、平成22年2月に83歳で他界いたしました。
もちろん家族は、その父の遺志を尊重して「献体」と「アイバンクによる眼球提供」をお願いすることにいたしました。

ここで少し父のことを思い出して話させていただきます。

父は、あらゆることに対して「学ぶ心」を持ち続けていました。
こと文学や芸術に対しての情熱は人一倍に一所懸命だったと思います。

30歳の時に始めたレストラン経営では、月に一日しか休みが無かったのですが、
その日には奈良に出向いて鎌倉時代の仏像と対面していたように記憶しています。
またある時は、中学生だった私が学校から家に戻ってくると、「筆箱と鉛筆をちょっと貸してほしい。」というのです。
私は別に持っていた新しい筆箱と鉛筆を引き出しから出して父に渡すと、鉛筆を削る父の後ろから母が「明日から学校へ行くんや、大学でまた勉強するんやって。」というのです。
「でも、もう大学は学生時代に終わったのと違うの。」と聞くと、メモを取り出して「寿」という字と、山岳の「岳」それから「文章」という字を書き、それから説明が始まりました。
実は、甲南大学で行われる寿岳文章さんという方の特別講演の聴講生になれたということで、その聴講のカードを嬉しそうに見せてくれました。「いまから通うんだ。」という父の姿に「幾つになっても学ぶ心は必要なんだ、学校を出ても勉強は終わりじゃないんだ。」ということを教わりました。
ですので、今まで見ることが出来なくて、角膜移植によって見ることが出来るようになった人たちは、「もっと色んなことを見たり学んだりすることが出来るのだな。」と思いました。そのことをすごく嬉しく思い、自分の事のように喜んでおります。

また、パソコンが普及していなかった昭和30年から50年くらいの時に、家には新聞が3つも来ておりました。
父は、それを丁寧に読んでは切り抜き分類しておりましたが、母はその新聞の処理に困っておりました。
父は新聞を読んで分からないことは、広辞苑や百科事典を引っ張ってきて、自分なりに調べては整理しておりました。
その折々にふと浮かんだことをメモにして、まとまってくるとエッセイや小説に書き上げていたと思います。

新聞も今のようなコンピューターで書き上げて行くものではなく、一字一字を締め切りまでに書き上げ、印刷の人が小さな植字を使い活版で印刷するので、どうしても誤字が出てしまいます。
それを新聞で読んで、辞書で調べ、辞書に無ければハガキを書いて新聞社に問い合わせ、納得の行くまで答えを得ようとしました。
おかげで「彦左衛門」という名前から、校閲部からはご意見番と呼ばれました。「ほらほら、また違ったらしいぞ、ご意見番から手紙や。」というふうに校閲担当の方が、上司の方に怒られていたということでした。
新聞社からは「実はこの字はこちらの誤植でした」とか「こちらは、こういう意味でした」というお返事をいただいたのですが、その隅にそのことが添えられており「ご意見番やって…。」と、照れくさそうに皆の前でハガキを読んでくれた父の姿も思い出されます。

美しいものや芸術、音楽が好きだった父は、仕事に追われながらも人のお役に立てればと願っていたのでしょう。
その生き方を通して私も家族も教えられることがとても多くありました。

母も8年前に亡くなった時には、両眼別々の方にお手伝いさせて頂き、もうそれが何よりだと思っております。
そう考えると、自分一人だけの身体ではないと諭されているようで、
このわが身を全うするまでは、この小さな身ひとつでも大切にしなければいけないなと思うようになりました。
このような気持ちにさせて下さったアイバンクの方々に感謝の気持ちで一杯です。どうもありがとうございました。


萩藤 貴久様

透明な光が見える喜びを知ってもらえるよう願っています。

私ごとですが、父もある集まりで献眼のことを知り祖母、母に話し三人はすぐに進んでアイバンクに登録しました。
その父も二年前に亡くなり誰かの明るい光になっていることでしょう。

自分の命がわかっていたのか、亡くなる二日前に近くに住む叔父を呼び「アイバンクへ電話してくれ」と言いその後、突然亡くなってしまいました。
周囲の者もびっくりしましたが、そこには父の強い遺志を感じずにはいられませんでした。
そして、無事に献眼することが出来ました。

十三年前に祖母も献眼しました。
角膜移植で不自由な生活から透明な光の中で暮らせるしあわせの助けになれば、お互いの大きな喜びとなります。

これからも、アイバンクに携わっておられる方や眼科の先生の地道な啓発活動により身近な人の理解を深め一人でも二人でも透明な光が見える喜びを知ってもらえるよう願っています。

最後に、関係者の皆様に感謝申し上げます。


視力回復者の声

匿名希望者

角膜移植を受けられた方の喜びの声

初めに、今回私に提供して下さったドナー様またご家族の皆さま、本当に心から感謝いたします。ありがとうございました。

私は68歳の男性です。41歳の時に「両眼若年性緑内障」と診断され、正直なところ緑内障という病気がよく分かりませんでしたが、徐々に眼圧が上がり、視野の欠損がでてきました。
その後何度も手術を繰り返しましたが、ついに近くの眼科ではこれ以上の対応が難しいと言われ、神戸大学病院を紹介されました。

最初の手術から21年後の春、緑内障の難しい手術は上手くいき無事終了しました。その後も神戸大学病院に通院していましたが、それから3年後の春、右目の痛みがひどくなり、まぶしくて眼をあけているのもしんどく、目薬をさす時以外はずっと眼帯生活という状態になりました。
その頃、もともと角膜が弱っていた為に角膜移植しかないとの事で、兵庫アイバンクに登録させて頂きました。
翌年の夏に移植手術を受け、その結果1年4ヶ月痛かった症状が嘘のように取れ“あの痛みが無い”この気持ちは経験した人でないと分からないと思います。
本当に感謝しました。そして嬉しかったです。でも明日になるとまた痛みが出るのでは・・・と思うと、嬉しさ半分怖さ半分でした。
その後穏やかに日が過ぎ10日で退院し、一週間後の外来では先生に順調な回復ですよと、仰っていただきほっとしました。

緑内障の為に視野欠損があり視力はあまり変わらないのですが、今回の手術で痛みが取れたこと、眼帯がいらなくなったこと、角膜の透明度が左眼に近くなり本当に見やすくなりました。この3点は私にとって大きな進歩だと思います。これから一日一日を大切に生きて行きたいと思います。

大学病院の主治医の先生、担当医の先生方、看護師の皆様、また兵庫アイバンクの皆様、本当にお世話になりありがとうございました。今後とも引き続きよろしくお願い致します。最後にドナーさん、本当に感謝しております。ありがとうございました。

匿名希望者

ご提供者様のご家族さまへ

私の今の思いを率直にお伝えしたいと思って、筆をとりました。
ご提供くださった方がいらしたから、私は今こうやって手紙を書くことが できている。本当にありがたいことだと思っています。

私の場合、水疱性角膜症がかなり進行しており、角膜内皮移植は不可能で全層角膜移植になり、それは角膜内皮移植よりリスクの高い手術で、術後の回復が遅く、移植後の養生もとても大変である、と主治医の先生から説明をうけました。

当初は手術や拒絶反応のことなどに対する不安がとても大きく、なんとか手術を受けないでおこうと思っていました。
ところが、破片がささるような痛みがはしりだし、連日のごとく大粒の水滴がポタポタと落ちてきて、重症化していくのを感じるようになりました。
それでついに、手術を受ける決心をいたしました。

 

移植後の目の様子はとても良い状態であり、経過は順調であると先生から 言われ、とても嬉しく思っています。

どんよりとした曇りガラスが取り除かれたように、目の前が明るくなりました。全く見えなかった眼が、うっすらと見えるようになり、感動しました。痛みも治まり、とても嬉しく、今は日々感謝の気持ちで生きていきたいと思ってます。

これからの人生、この救ってもらった眼をとても大事に思い、宝物として 大切に守って生活をしていきたいです。
そして、末永く健康で暮らせるように、眼の状態に注意しながら、良好な状態を継続していけることを、このうえなく願っています。

本当に、おかげさまでございます。ありがとうございました。


中路均様(奥様からの手記)

ありがとうございました

ご免下さい。 お礼のお手紙が遅くなりました。
その後主人は順調で、仕事も始めております。

 

主人は幼い頃に目を怪我して不自由になり、それ以来不安を胸に仕事をしておりましたが、六年前にまた目に怪我をし、病院に通うことになりました。 そんな矢先に、先生から角膜移植を勧められたので、お願いすることに致しました。でも、角膜移植はテレビで聞く程度で田舎者には縁遠い話と思ってました。

 

昨年の秋、紹介された病院に検査に行きました。病院の偉大さにびっくりしました。
ほんとに大きくて、人も多いなと感じました。

 

翌年の初めにアイバンクさんから連絡が入り、二日後には手術と決まりました。

 

移植手術ご担当の先生から、「成功しましたよ」との言葉を聞くまでの数時間は、不安とまた角膜を主人にご提供くださったご家族様へのいろいろな思いが 胸にこみ上げてきて、なんともいえぬ気持ちで一杯でした。
先生から「無事手術が終わりましたよ」と報告をうけました時は、本当にありがとうの感謝の気持ちで一杯でした。

見ず知らずの私たちに、生きる希望を与えてくださって、本当にありがとうございました。
言葉少ない主人が、何度も何度も「すまないねって、伝えてくれよなって」呟きます。感謝しか、私たちにはありません。

大切な方の角膜をご提供くださり、本当にありがとうございました。
お会いしてお礼を申したいところではありますが、お手紙でお許しくださいませ。


伊藤信夫様

角膜移植を受けられた方の喜びの声

約10年前に両眼の白内障手術を受け、その際に右目の角膜内皮細胞が正常値の1/10以下しかなく「いずれ角膜移植を必要とする時期が来る」 と言われていました。その後も継続して眼科治療を続けてきましたが、徐々に右目の視力が落ち、眼圧も上がり、掛かり付け医のご紹介で約2年前から神戸大学医学部付属病院の眼科で治療を受けることになりました。そして、その後兵庫アイバンクに角膜移植の待機登録をさせて頂きました。  

誠に申し訳ないことですが、それまで「移植」「アイバンク」という言葉は承知していましたものの、それが「直接自分とは関係のない遠い存在」のような気がしていました。ところが、待機登録をしたことにより「直接自分のこれからの一生に重大な関わりのあること」へと気持ちが変化していました。また「どなたかがお亡くなりになることによって、自分が救われるということでよいのだろうか?」という根源的な問題にも悩みました。しかし、どなたかの善意にお助け頂くことで自分が生かされることに感謝して、その時を待つことにさせて頂きました。

期間としては、登録後2年から3年程度と言われていたので、こんなに早く手術の日を迎えることが出来るとは思っていませんでしたが、兵庫アイバンクから電話を頂き、急遽 翌日に入院・手術を受けることになりました。

お陰様で主治医の先生はじめ、多くのご関係者の手厚い治療・看護で無事に移植手術をして頂くことが出来、その後順調に回復し、通常の日常生活を送ることが出来るまでになりました。

改めて献眼して下さったお方様、並びにご遺族の方々に衷心から有難く厚く御礼申し上げます。また、手術をして頂いた主治医の先生・看護師・アイバンクの方々にも深甚なる謝意を申し上げます。有難うございました。

献眼者・ご遺族の方々の善意・ご理解があって新しい光明をいただくことが出来、これからはその方々の善意に日々感謝しながら、自分の人生を全うさせて頂きたいと考えています。

多くの方の善意、並びに素晴らしい医療技術のお陰で頂いた「光」、改めて深く感謝申し上げます。


大西タツ子様

提供者様とその御家族の皆様

 84歳の母が、昨年12月に角膜移植を受けることができ瞳は再び命を頂きました。ありがとうございました。  

術後、日ごとに「少しづつ見える様になってきている」と母が嬉しそうに話すのを聞き、私も涙が溢れてきました。

54歳頃にヘルペスで右目が見えなくなった母は、その後30年間左目だけで頑張ってきました。しかし、その左目も徐々に見えづらくなってきて、母だけでなく娘の私も不安に感じておりました。

ちょうどその頃、主治医の先生から角膜移植の話しを伺いました。角膜移植は、自分より若い方や症状の重い方が受けるものだろうと思っておりましたが、先生の話を伺いその認識を改め、希望を持ち、角膜移植の待機登録を致しました。

そして、昨年12月に最高のプレゼントを頂きました。本当にありがとうございました。

貴重な角膜の提供者様と、その御家族の皆様、心よりお礼を申し上げます。また、執刀して頂いた先生をはじめ、皆様方に感謝致します。

本人がまだ筆をとれないので、本人の気持ちを代筆させて頂きました。


小池りさ子様

ご家族様

 前略 この度は、ご提供くださいました貴重な角膜を使わせていただき、無事に移植手術を受けることができました。本当にありがとうございました。  

私は、夫と3人の娘を持つ50歳の女性です。左眼の濁りとかすみから遠近感を失い近医を受診しました。白内障の他に角膜の濁りがあり、白内障手術もできないと言われた時はショックでした。経過をみていくうちに医師より、角膜移植を勧められツカザキ病院に紹介していただきました。そして、アイバンクのお世話になることとなったのです。

昨年12月、角膜移植と白内障手術を同時に受けることが出来ました。術後に眼帯を取り感動しました。目の前が明るく、視野が広がって感じられました。とても嬉しかったです。まだ術後2週間程なので目の安静を守り、しっかり回復するよう努めていきます。

これも一重に角膜をご提供くださった方の尊いご意思と、そのお気持ちを尊重され、数々のお手間をいとわずに角膜のご提供にご尽力くださいましたご家族様の温かいお心づかいによるものと、改めて感謝しております。

時々、左眼の角膜にもお声かけしながら大切に使わせていただこうと思っております。本当にありがとうございました。

末筆ながら、謹んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご家族様のご多幸とご繁栄をお祈り申し上げます。

かしこ


N.I様

角膜移植を受けられた方の喜びの声

私は、この9月に角膜移植を受けました。円錐角膜という病気を小学校の頃より発病し、コンタクトレンズを装着することで生活をしていましたが、徐々に視力が悪化し移植に踏み切りました。

まだ日にちが浅いですが、徐々に回復しているようです。角膜をくださった方、その御家族の方、本当にありがとうございました。感謝の気持ちを言っても言い尽くせないほど感謝しています。そして、この目を大切に、私の人生も大切にしなければならないと強く思っています。

また、主治医の先生をはじめ病院関係者の方々、アイバンクの方に感謝し十分に充実した人生を生きていかなければならないと思っています。

ありがとうございました。


グエン・ヴァン・ティエン 様

ご提供者様のご家族様へ

先日は、貴重な角膜をご提供くださりありがとうございました。

私は、ベトナムから仕事をしに日本へ来ました。仕事の時に一瞬の油断で左眼にロープが飛んできて見えなくなりました。

今までに、手術を3回受けて1年半になりました。だけどなかなか見えなかったのでとても心配でたまりませんでした。先生は、角膜を移植しなければ治らないと言いました。

先日、ご提供者様のおかげで角膜をいただいて手術ができました。手術は無事に終わり、手術後の経過も良好です。これからも、一生大切にしていきたいと思います。

私は、日本語がまだまだ上手く書けないですが、感謝の気持ちを込めて手紙を書きました。本当にありがとうございました。

暑い日が続きますが、くれぐれもお身体に気を付けてお過ごしください。


A.I様

大切な贈りものを下さいましたお方、ご家族の皆様に厚くお礼を申し上げます。

提供戴いたお方、ご家族様へ感謝致します。

治療を続けていた眼が緑内障と診断されて1年後に手術を受けましたが、何かの原因で悪くなり、再入院し診断を受けて治療にかかっていました。
しかし失明に近い状態になった故、先生より説明を受け、角膜の移植を受ければ以前よりは良くなるとのご指導を受け、角膜移植の申請をして頂きお世話になりました。

そして、この度私に角膜をご提供下さいましたお方、ご家族の皆様に厚くお礼を申し上げますと共に、
提供に同意下さった皆様に重ねて感謝を申し上げます。
そして、移植手術に種々とご尽力下さいました諸先生方に、重ねて厚くお礼申し上げます。
移植後の経過もよく、日増しによく見える事と思っています。

末筆になりましたが、私に大切な贈りものを下さいました、あなた様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌。

ご家族様はじめご同意下さいました皆様くれぐれもご自愛下さい。


H.K様

心の視力も大きく開かれました。

ありがとうございます。よく見えます。東西南北どちらへ向いて感謝を述べればいいのでしょうか。
本当にありがとうございました。

手術の翌日執刀して下さった先生は「とてもきれいな角膜を頂きました。きれいです。」と喜んでくださいました。

ヘルペスが原因で角膜に障害を起こし白濁、視力の低下が著しく薬等での改善は望めませんでした。
このままの状態を受け入れるしかないと思っていました。

今回あなた様の尊いお心を頂きただただ感謝の念でいっぱいです。
視力そのものも著しく上がりましたが、心の視力も大きく開かれた気がしております。
あなた様の気高いお心にふさわしい人間であったのか、私が頂いてよかったのかと今までの生き方を顧みております。
これからは頂いたお心に恥じぬ様に生きてゆかねばと武者震いにも似た思いをしております。

趣味で短歌と陶芸をしています。下手でびっくりなさるでしょうが、いいものが出来たら一緒に喜んで下さい。

今年の紅葉は今までで一番美しく見えました。
来年もまた一緒に京都へ参りましょう。竹内栖鳳の獅子や猫の絵にも会って来ましたね、絵はお好きでしたか。

白濁した目と見られるのが嫌でした。目と目を合わせて話すことを避けていました。下を向いていました。
うつむいて暮らしていた日々から脱却してまいります。目を見るのも嫌でした、鏡を見ることも避けていました。
今は鏡を見るのが嬉しいです。本当にありがとうございました。
御家族の皆様、大変な悲しみのなかでの決断を賜り厚く御礼申し上げます。

主治医の先生は私を診るということは、私とドナーの方の二人を診ていることですとおっしゃっています。
大切にさせて頂きます。

そしていつか、いつの日かお返しする時まで一日でも長く美しいもの、美しい人、
美しい行為をたくさん、たくさん見て参りますことをお誓いします。


T.T様

ただただ感謝の言葉しかみつかりません。

この度は、角膜をご提供頂き誠にありがとうございました。

母は幼少の頃より白濁に悩まされており今回、角膜提供のお話しを頂き無事に手術も終り、
今までずっとモヤがかかった状態で見えていたものがすっきりしたと喜んでおります。

今回、視覚が変わったためか、今まで悩まされていたふらつき、めまいも軽減され二重の喜びとなっております。

最後になりましたが、ご家族がお亡くなりになるという状況の中、
角膜提供にご賛同頂いた、御遺族の皆様にはただただ感謝の言葉しかみつかりません。

直接、御礼を申し上げることは不可能かと存じますので、
母に代わり、感謝の気持ちをお伝え頂けると幸いでございます。
皆様方におかれましては御身体御自愛下さいますようお祈り申し上げます。

今後も角膜移植を希望されている方々が一人でも一日でも早く希望がかないますこと祈願して筆を置かせて頂きます。

 

追伸

本人はまだ筆を取れる状態ではありませんので、本人の意向をもとに代筆させていただきました。


T.U様

言い尽くせぬ感謝の気持ちで一杯です。

今年、市民病院に於いて無事角膜移植の手術を受けました。
以来、治療に励んでおりましたが今では視力も大分快復して参りまして、色彩もはっきりと見える様になりました。

ご提供下さったあなた様には言い尽くせぬ感謝の気持ちで一杯です。あわせてご家族の皆様に厚くお礼申し上げます。


岩崎 一郎様

かけがえのない角膜を提供下さった方に心より感謝申し上げます。

この度は、子供に角膜移植を受ける事が出来ましてありがとうございました。
かけがえのない角膜を提供下さった方に心より感謝申し上げます。

すぐお礼のお手紙と思っておりましたが、本人に事故がございまして入院をしておりました為、
今日に至ってしまいました。申し訳ございません。
本人も今の所筆を取ることが出来ませんので、本人の気持ちを私が書きとめました。

提供下さった方、ご家族様に毎日、東に向かって手を合わせております。
本当にありがとうございました。厚くお礼申し上げます。

お体には、くれぐれも気を付けてご自愛下さいませ。

取り急ぎお礼とさせていただきます。

母 岩崎 元子


菊山 定治様

これからの日々を大切に生きていきたいと思っています。

主治医の先生から急遽「角膜の提供があったので手術をしましょう」との連絡があり、慌てて入院をしました。
翌日手術を受け、お陰様で何もかも順調にことが運び、2週間程で退院することが出来ました。
いつもは我が侭な私ですが、今は温和に毎日を過ごしています。

角膜を提供してくださった方のお陰で、手術を受けた左眼は少しずつですが、手術をする前よりよく見えています。
右眼の方は、もう手術をしても無理とのことです。
今回は最後の望みでしたので、頂いた角膜を大事に、皆様の気持ちに感謝しながら、これからの日々を大切に生きて行きたいと心からそう思っています。

角膜を提供してくださった方、ご家族の皆様に感謝の心でいっぱいです。本当に、本当に有難うございました。

古本 雅之様

これからも頑張って生きていこうと強く思いました。

私は昨年、尊い角膜を頂き移植手術をしていただきました。まだ日にちは浅いのですが、順調に回復しております。
角膜をくださいました方、そのご家族の皆さまありがとうございます。厚くお礼申し上げます。

私は4月に70歳を迎えますが、今回は2回目の手術となりました。
1回目の手術は35歳の時です。右目に異常を感じたのはその3年前、真っ赤な充血と痛みでした。
神戸大学病院に通院して治療を受け「角膜ヘルペス」と診断され、治療に長い期間が掛かるとわかりました。

勤め先に迷惑をかけることになりましたが、4か月余り休職して治療に専念しました。
その後、症状が落ち着き仕事に復帰しましたが右目の視力が大きく低下し左目に頼る不自由な日々が続きました。

家庭では二人の子供がまだ幼く、家族の将来にも不安を覚え気分も沈みがちな毎日でした。
そんなある日、先生より角膜移植のお話を頂きました。

3年近く待機して角膜を頂けることになり、移植手術を受けました。
手術は局所麻酔で行われ、室内の音や会話が聞こえて緊張したこと、また長時間動かずにいることがきつかったことを思い出します。
手術後も動かないよう頭を固定されて大変でしたが、診察を受けるたびにハッキリと見えてきてとても嬉しかったです。

右目が光を失いかけた恐怖心・失望感から解き放たれて希望の光が見えた思いでした。
角膜を頂けたことが嬉しく、これからも頑張って生きていこうと強く思いました。
そして頂いた角膜は長い間私を支えてくれました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

35年の間私の生活を守ってくれた角膜ですが、数年前から角膜の弱りと白内障が重なって視力低下が進んできました。
そして、今まで頼ってきた左目にも白内障の症状がでてきたため、再び不安な日々を送ることになりました。
これからの事を思うと「手術しなければどうなるのか?」「右目は再手術が可能な状態か?」など心配なことばかりでしたが、先生に角膜の再移植について相談させていただきましたところ「手術は出来ますよ」と詳しく説明を頂き、2回目となる手術をお願いしました。

今度の手術は全身麻酔で行われ、3時間後には病室のベッドの上でした。
前回と違って体の固定は無く、しばらくの間安静にした後は、普通の動作・行動が許されて驚きでした。
これも医療技術の進歩、携わる先生方のお陰によるものと感謝の念にたえません。

お陰さまで、とても良く見えるようになり喜んでおります。
角膜をご提供くださいました尊いご遺志に感謝を忘れず、大切にしてまいります。
そして、残された人生を少しでも社会に恩返しできるよう頑張ります。

最後になりましたが、神戸大学病院の先生方、看護師の皆様、兵庫アイバンクの皆様、大変お世話になりました。
有難うございました。


高橋 一騎様

提供いただいた恩返しをこれからもずっとしていきたい。

平成12年、私が小学校4年生の時に右目を針金でケガをいたしまして、その日すぐ地元の病院で緊急手術を行いました。
あと少しで失明していたかもしれないという話を、担当の先生から聞いた時は、とても怖かったことを今でもはっきりと憶えています。
その病院で入院や退院をしながら治療を続けて行くうちに、主治医の先生から神戸大学病院を紹介して頂き、通院することとなりました。

神戸大学病院で治療を続けていくうちに、角膜移植の登録手続きをいたしまして、順番を待つことになりました。
すると、年明けには移植手術を受けられるという話がありました。担当の先生から「登録をしても手術を受けられるのはずっと先かもしれない。」と言われていたので、私にとってその知らせは、とても嬉しい知らせでした。
そして、角膜移植の手術を受けて、初めて眼帯を外した時に、右目で見ることが出来た診察室の風景は、今でも鮮明に思い出すことが出来ます。

少し余談になるのですが、私の好きな歌の歌詞の中に、「この世で一番怖いのは、当たり前が、当たり前じゃなくなる瞬間…」というフレーズがあります。
右目をケガした瞬間、私は不安ではなく、とても恐怖したことを今でも憶えています。
ですが、移植手術を受けた時、そして、初めて眼帯を外した時に、これまで見えなかったものが見えるようになったとき、その時の私の感動は、今でも表現することが出来ないくらい嬉しかったと思っています。
そして、その時とても尊い角膜をいただいたお陰で、私はいま大学で、高い動体視力が要求されるバドミントンをすることが出来るようになり、本当に不自由のない生活を送ることが出来ています。
また、わたしが提供を受けたことで、家族もアイバンクに登録させていただきました。

家族を含め私は、提供いただいた恩返しをこれからもずっとしていきたいと思います。
これからも角膜を提供していただいた方、またそのご家族の方の為にも、いただいた角膜を大切にしていくとともに、
「僕に提供して良かった。」と言ってもらえるような、いろいろな経験をし、この右目でたくさんのものを見ていきたいです。
本当にありがとうございました。

つたない言葉ですが、私の話を終わらせていただきます。


兵庫県明石市 三木 文子様

余生を二人三脚でエンジョイさせて頂きます。

私は、明石市に住む83歳の女性です。

平成22年に右目の白内障手術を受けることになり、手術前の検査を受けました。
すると、主治医の先生から「角膜内皮細胞が減少している為、白内障の手術は出来ない。」と告げられたのです。

その後、平成24年には角膜に痛みが出るようになりました。
そして平成26年7月、猛暑の影響もあったのか痛みが増すようになり、目の周りは腫れて熱を持ち、
目は眩しくて開けにくく眼帯をして凌ぐ毎日となりました。

先生より告げられた診断名は「水疱性角膜症」という病気で、角膜移植の他に治療法は無いとのことでした。
その後、すぐに明石市立市民病院を通じて角膜移植待機登録をして頂き、待機することになりました。

そして、10月末頃に主治医の先生よりご連絡を頂き、無事に角膜移植の手術を受けることが叶いました。

ほんとうに夢のようです。順調に回復に向かっております。

角膜をご提供下さいました方、誠にありがとうございました。
また、角膜提供にご賛同頂きましたご遺族の皆様には、只々感謝に絶えません。

毎朝、黙祷をささげさせて頂いております。
これからの余生を二人三脚でエンジョイさせて頂きます。

柳川 芳裕様

目の光だけでなく、人生の光をも得ました。

この度は、かけがえのない御遺志のお陰により角膜移植の手術を受けることが叶いました。

新しい角膜を頂いたことで肉体の目の光だけでなく、人生の光をも得たように感じております。
この喜びのかげには、かけがえのない、おひとりの方の死があったことを深く受け止め、
これからの人生を大切に生きたいと願っております。

角膜を提供してくださったお方の尊い御遺志に心より感謝し、
御家族様には、深い慰めがありますことを切にお祈り申し上げます。


 
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